金融マン、という名の絶滅危惧種について 

(やさしい経済思想) 

世の中には、 

金融マンという生き物がいる。 

 

スーツを着て、 

眉間にしわを寄せ、 

「いまが買い時ですね」などと 

天気予報よりも当たらないことを堂々と言う。 

 

いや、それはいい。 

人間にはそれぞれの仕事がある。 

たとえば私も仕事をしているし、 

あなたはあなたの仕事がある。 

 

ただ、金融マンの仕事をよく観察すると、 

ひとつの前提に支えられている。 

 

——あなたが不安である、という前提だ。 

 

老後が心配でしょう? 

円安が心配でしょう? 

インフレが心配でしょう? 

投資してないと取り残されますよ? 

 

ほら、怖いでしょう? 

さあ、この商品をどうぞ。 

 

という、極めて優雅な生態系の上に成り立っている。 

 

ところが、マイナポイントOSが出現した。 

この生態系に、ちょっとした異変が起きる。 

 

国家OSが整って、 

外需ショックもインフレも為替も、 

生活レイヤーには効かなくなると—— 

 

そう、 

**“人間が不安じゃなくなる”**という、 

金融マンにとって最悪の環境が到来する。 

 

やれやれである。 

 

これはもう、 

ジャングルに突然、街灯が増えるようなものだ。 

 

生活が安定すると、人は陽のほうを向く。 

金融マンはどちらかというと、影の側で生きてきた。 

 

心配。将来不安。複雑な制度。 

そういう影が濃いほど、彼らの言葉は輝く。 

 

だが生活レイヤーがOS化されると、 

影が薄くなる。 

 

影が薄くなるとどうなるか。 

 

人は働きすぎなくなり、 

暮らしの基礎が読めるようになり、 

そして金融マンは、ひっそり数を減らす。 

 

まるで、昭和の喫煙所が 

令和の駅前広場で見つからなくなったみたいに。 

 

金融マンがいなくなる未来は寂しいか? 

いや、寂しくない。 

 

それはちょうど、 

「みんなが自力で防犯を気にしなくてもよくなる」 

そんな社会インフラが整った、という話に近い。 

 

誰も困らない。 

むしろ人間が、のびのび暮らせる。 

 

金融マンのいない世界では、 

株価よりも朝日の色が気になり、 

為替よりも味噌汁の湯気が大事になり、 

 

そして何より—— 

お金ではなく「暮らし」が中心に座り直す。 

 

そんな当たり前のことが、ようやく実現する。 

 

結論:金融マンは“悪”ではなく“時代”である 

 

彼らは必要だった。 

かつて不安が経済を支配していた時代には。 

 

だが、 

生活OS × マイナポイントOS × 国家ファンド OS ×内需循環モデル 

が動き出したら、 

その役割は自然に薄れていく。 

 

金融マンもまた、静かに別の場所へ移っていくだろう。 

人間が安心して生きる社会では、 

「不安を売る仕事」は、成立しにくいからだ。 

 

そして人類はようやく、 

“安心して生きる”という、 

最もシンプルで、最も難しかった状態に到達する。