【MMT】賽銭箱に向かって演説する人々
いつからだったか、日本の経済議論というものは、
まるで夕暮れの公園で膝を抱えている猫のように、
自分が何者かもわからないまま鳴き続ける儀式になってしまった。
片や「積極財政だ」と旗を振り、
片や「緊縮こそ正義」と涙ぐみ、
また別の誰かが「MMTだ、いやMMTじゃない」と、
舌の長さを測り合うみたいに横文字を振り回しては、
見えもしない観客に向けて回転して倒れる。
その光景をぼんやり見ながら、
「この人たちは結局、他者を否定して自分の声に酔いたいだけなのだ」ということに、ある日ふと気づく。
鼻をほじりながらでも気づける種類の真実というやつだ。
右か左か、正義か悪か、積極か緊縮か。
二股ソケットに差し込めば世界が理解できると信じている。
電圧も測らずに。
しかし現実はもっとたちが悪い。
国家はとうに信用創造で動き、
税金はインフレを削るカンナに成り果て、
世界の物価波が押し寄せれば、
カンナの刃は湿気で反り、木目は逆立ち、
削っても削っても表面が毛羽立つ。
それなのに学者ぶった評論家たちは、
「MMTごっこ」だの「財政規律」だの、
火の気のない焚き火の前で腕を組み、
煤だけ吸って満足している。
奇妙なのは、
彼らが自分の立っている地面が沈んでいることに、
最後の瞬間まで気づかないという点である。
高みにいるつもりが、実際には膝まで泥。
そして片山さつきが、
「日本は自国通貨で国債発行してるからデフォルトはしない」
と平然と言ってのける。
議論の幕はもうとっくに下りているのに、
舞台袖でだけ演説が続いている状態だ。
https://nekoryman.hatenablog.com/entry/2025/11/13/120604
にもかかわらず議論ごっこの人々は、
拾い忘れられた折りたたみ椅子に向かって、
誰にも届かない演説を続けている。
客席は閉店し、カーテンの向こうで掃除機が鳴っているのに、それでもまだ語る。
語ることだけが彼らを支えているらしい。
では何をすべきか?
答えは拍子抜けするほど単純で、内需に逃げない金をつくること、つまり国内の磁場を強くすることだ。
マイナポイントOSで循環をつくる以外にない。
現在、自民党も似たようなことを始めるらしいが、
内需限定の回路になっていなければ、
その効果は湯気のように消えていくだろう。
だがこう言うとまた誰かが、
「積極財政だ」「いやMMTだ」「インフレが!」と叫び、議論という名の神社の賽銭箱に、自分の声をチャリンと投げ込む。
声は硬貨ではないが、
人は声を投げると何かを払った気分になるらしい。
だから世界はなかなか進まない。
進まないまま夕暮れになり、
猫はまた膝を抱えて鳴く。
声音だけが、夜に溶けていく。