火打石を神棚に置く人たちへ
楽になることを、なぜそんなに嫌うのか
自然派の人に、
「ビニールは嫌なんです」と言われたことがある。
なるほど、環境のことを考えるのは大事だ。
それ自体を否定する気はない。
ただ不思議なのは、
そう言う人ほど、
冬になると石油ストーブを使いがちなことだ。
ビニールは不自然だと言う。
でも石油で部屋を暖めることには、
あまり抵抗がない。
これは矛盾ではない。
人間が「理念」よりも
「楽に生きられるか」を優先する生き物だ、
というだけの話だ。
楽になる、と言うと、
決まって誰かが顔をしかめる。
「楽をするな」
「努力しろ」
「甘えるな」
その理屈を最後まで真面目に突き詰めると、
こうなる。
車に乗るな、歩け。
電気を使うな、火を起こせ。
エアコンは軟弱、
冬は凍え、夏は蒸し焼きが人間らしい。
でも不思議なことに、
そう言う人ほど
エアコンのリモコンを離さない。
文明の恩恵は自分の分だけ使い、
他人が楽になると
「それは堕落だ」と言い出す。
これを都合がいいと言わずして、
何と言えばいいのだろう。
ここで言う火打石とは、
もう使わなくていいはずの苦労を、
あえて生活に残そうとする姿勢のことだ。
そして神棚とは、
本来は人を助けるための仕組みや価値観を、
「疑ってはいけないもの」にしてしまう心の置き場だ。
火打石を神棚に置く、というのはつまり、
苦労そのものを拝み始めてしまった状態のこと。
「昔は大変だった」
「俺たちは耐えてきた」
「だから今も苦しいのが当たり前」
それ、本当に守るべき伝統だろうか。
楽になるとは、
何もしないことではない。
生きるために、
毎回ロシアンルーレットを回さなくていい、
というだけの話だ。
病気になったら自己責任。
外れたら努力不足。
失敗したら人生終了。
このルールを
「人生のリアル」みたいに語る人ほど、
だいたい安全な席に座っている。
苦労を美徳にしているのではない。
自分が耐えた無意味な痛みを、
なかったことにしたくないだけだ。
だから次の世代にも
火打石を配る。
「これが根性だ」
「これが現実だ」
と言いながら。
神資本論が言っているのは、
革命でも、ユートピアでもない。
資本を神の座から降ろす。
それだけだ。
数字に祈らない。
市場に命を預けない。
安心まで投機に差し出さない。
それをやめた瞬間、
人は少し楽になる。
少し楽になった人間は、
意外とサボらない。
むしろ、
やらなくていい地獄から解放されて、
初めて「何をやるか」を考え始める。
文明は、
真面目な根性論では進歩しなかった。
面倒だったから道具を作った。
危なかったから制度を作った。
覚えるのが大変だから文字を書いた。
次は何か。
生きることを、
ここまで苦行にしなくていい、
というインフラだ。
それが気に入らないなら、
どうぞ火打石を磨き続ければいい。
こちらはもう、
次の生活設計の話をしている。