投資家・相続成金・一般労働者と神資本論
お金の「価値の歪み」と、神資本論がやろうとしていること
同じ「1万円」でも、
誰が持つかによって価値はまったく違う。
これは感覚の話ではなく、
現代社会の構造そのものだ。
① 投資家にとってのお金
投資家にとってのお金は、
生活を守るものではない。
- 失っても生活は壊れない
- 数字が増減するだけ
- リスクは「ゲーム性」
お金は
増やすための駒であり、
時間を短縮する道具だ。
だから投資家は、
- 不安で動かない
- 恐怖で判断しない
- 今日の生活と切り離して考えられる
お金が「神」ではない世界にいる。
② 相続成金にとってのお金
相続成金にとってのお金は、
自分で獲得した価値ではない。
- 努力との対応関係が曖昧
- 失う怖さはあるが、意味づけが弱い
- 優越感や正当化に使われやすい
この層に多いのが、
- 武勇伝
- 苦労自慢
- 精神論
お金を「価値」だと信じたいが、
内心ではそれが空虚だと知っている。
だから語る。
③ 一般労働者にとってのお金
そして、最も歪んだ位置に置かれているのが、
一般労働者だ。
一般労働者にとってのお金は、
- 食べるため
- 住むため
- 病気になったときのため
- 老後のため
つまり、
生存そのもの。
失えば、
- 生活が壊れる
- 尊厳が削られる
- 将来が奪われる
ここで初めて、
お金は「宗教」になる。
信じないと生きられないからだ。
何が問題なのか
問題は、
この三者が同じ通貨・同じ市場に放り込まれていること。
- 投資家は遊び
- 相続成金は演出
- 労働者は生死
これを同じルールで扱うから、
不公平ではなく、残酷になる。
神資本論が「正そうとしている価値」
神資本論は言う。
お金の価値を「平等」にしようとしているのではない。
役割を正そうとしている。
神資本論の再定義
- 生活を守るお金
→ 国家OSが保証する - 投資・投機のお金
→ 自由レイヤーに隔離する - 不安を担保にした金融
→ 機能停止させる
つまり、
生存を賭けさせない。
神資本論の核心
投資家の1万円と、
相続成金の1万円と、
労働者の1万円が、
同じ重さで扱われる社会は、
公平ではない。
神資本論は、
お金を否定しない。
命を賭ける場所から、お金を降ろす。
それだけだ。
結論
お金は、
- 投資家にとっては道具
- 成金にとっては装飾
- 労働者にとっては生存
この歪みを放置したまま、
「努力」や「自己責任」を語るのは、
思想ではなく暴力だ。
神資本論は、
その暴力を終わらせるための
OSの書き換えである。